1965年第一回ドラフト会議
1965年 野村 克也(南海)が戦後初の三冠王
巨人1位 堀内 恒夫 (甲府商高) 速球と落差の大きなカーブを武器に、プロ1年目の1966年、開幕から13連勝を含む16勝2敗、防御率1.39で最高勝率、最優秀防御率を獲得した。新人王、沢村賞も受賞。 通算204勝。
近鉄2位 鈴木啓示(育英高) 1年目10勝、2年目から5年連続20勝以上、通算317勝を積み上げた。 (名球会入り)
阪神2位 藤田 平(市和歌山商高) 通算2064安打 (名球会入り)
当時は東京六大学リーグや社会人都市対抗野球の人気が高かったこともあり、入団までこぎ着けたのは指名132中52人にとどまった。
1966年第二回ドラフト会議
1966年 サンケイはニックネームをスワローズからアトムズに改称
この年のドラフトは高校生の進路への配慮して、9月第一次と11月第二次に分けて開催された。
阪神2位 高校生左腕投手 江夏 豊(大阪学院高)1年目12勝、最多奪三振、2年目25勝で最多勝、シーズン401奪三振の日本記録を樹立。 名球会入り。
大洋2次2位 好投手 平松政次 (岡山東商高ー日本石油)カミソリシュートを武器に通算201勝 名球会入り。
1967年第三回ドラフト会議
1967年阪急ブレーブスが初優勝。広島が球団名を広島東洋カープに改称。
この年から、12球団の指名順をまず抽選で決める方式に変更された
巨人1位 高田繁(明大) 1年目 打率301,23盗塁で新人王。 内野、外野でダイヤモンドグラブ賞を受賞した初めての選手になった。
東京1位 村田兆治 (福山電波工高)独特なマサカリ投法から繰り出す剛速球とフォークボールを武器に通算215勝。 名球会入り。
近鉄2位 永淵洋三 (佐賀高-東芝)1969年に打率333で首位打者 野球漫画(あぶさん)のモデルになった。
1968年第四回ドラフト会議
1968年 江夏(阪神)が世界新記録となるシーズン401奪三振を記録。
ドラフト史上最高の大豊作名球会入り 7人、 監督7人
阪神1位 田淵 幸一 (法政一高ー法大)1969年 本塁打22号で新人王。1975年 前年まで13年連続だった 王 貞治選手から本塁打王のタイトルを奪う。 通算1532安打、474本塁打。
広島1位 山本 浩二 (廿日市高ー法大) 通算2339安打、大卒最多536本塁打 名球会入り。
ロッテ1位 有藤 通世(高知高ー近大) 通算2057安打、348本塁打。 名球会入り。
阪急1位 山田 久志 (能代高ー富士鉄釜石) 通算284勝 名球会入り。
阪急2位 加藤 英司 (PL学園ー松下電器) 通算2055安打、347本塁打 名球会入り。
阪急7位 福本 豊 (大鉄高-松下電器) 通算2543安打、208本塁打、世界記録の1065盗塁。 名球会入り。
中日1位 星野 仙一 (倉敷商高ー明大) 通算146勝、
中日3位 大島 康徳 (中津工高) 通算2204安打、382本塁打。 名球会入り。
西鉄1位 東尾 修 (箕島高) 通算251勝、 名球会入り。
1969年第五回ドラフト会議
1969年 金田正一(巨人)が通算400勝達成。 黒い霧事件。
中日1位 谷沢 健一 (習志野高ー早大)1年目から外野の一角に定着、新人王。 通算2062安打、273本塁打。
南海2位 門田 博光 (天理高ークラレ岡山)通算2566安打、567本塁打。 名球会入り
1970年第六回ドラフト会議
1970年黒い霧事件の責任を取って西鉄・楠根オーナー辞任。10/18野村克也2000安打達成
南海8位 柏原 純一 (八代東高) 通算1437安打、232本塁打。
ヤクルト3位 若松 勉 (北海高ー電電北海道) 通算2173安打、220本塁打、打率319は歴代日本人選手トップ。 名球会入り。
1971年第七回ドラフト会議
7/17 江夏豊 オールスターゲームで9者連続三振。
巨人6位 小林繁 由良育英ー神戸大丸 1年目の1973年は二軍で7勝5敗10セーブ・防御率2.43の成績を挙げ、イースタン・リーグの優勝投手にもなった小林は、9月26日の中日戦(後楽園)で一軍初登板。チームが負けている場面で3回リリーフ登板し好結果を残した。 通算 139勝 95敗
ロッテ3位 弘田 澄男 高知高校ー四国銀行 身長163cmとNPBで当時一番小さな選手であったが、1年目は内外野兼任のサブプレーヤーに抜擢。 通算1506安打。
1972年第八回ドラフト会議
1972年 10/27西鉄ライオンズ消滅。福本豊シーズン106盗塁世界記録。
大洋 3位 田代 富雄 藤沢商業高等学校 1321安打 通算打率266 278本塁打。プロ入り当初、間の抜けた受け答えをした田代に対して、沖山光利二軍打撃コーチが「おまえはオバQみたいな性格してるな」と表現したことに由来する[1]。また別のニックネームとして、自身の打撃フォームから「アジの開き」とも呼ばれた。
中日1位 鈴木孝政 成東高校 124勝 94敗 防御率3.49.
若手時代は最速155km/hを記録した剛速球を武器にして力で押す投球スタイルであったが、6年目となる1978年の中盤ごろから肘の痛みに悩まされて直球の球速が140km/hほどにまで落ち込み、一時はトレード要員に数えられるまで追い込まれた。
そうした中で、当時投手コーチであった権藤博とともに新たな投球スタイルを模索し、権藤から「同じフォームから強・中・弱の三種類の直球」を投げて緩急をつけて打者のタイミングを外す投球(チェンジ・オブ・ペース)をするよう提案され、これを習得することで衰えた球威をカバーして技巧派として復活を遂げた[9]。
太平洋3位 真弓明信 柳川商高ー電電九州 1888安打 292本塁打 打率285
通算先頭打者本塁打歴代2位の記録を持ち、1983年に首位打者を獲得、1985年には一番打者として打率.322、34本塁打というクリーンアップ並みの成績を残したことなどから、「史上最強の1番打者」または「恐怖の1番打者」とも言われている。
1973年第九回ドラフト会議
1973年 パ・リーグが2シーズン制を開始。 日拓ホームフライヤーズ誕生、消滅。 10/22巨人V9達成。
大洋1位 山下大輔 清水東高校ー慶應義塾大学 1378安打 129本塁打 打率262現役時代は球界屈指の守備の名手であり、1976年から8年連続でダイヤモンドグラブ賞(遊撃手部門)を受賞した。1976年7月11日から1977年4月5日まで遊撃手連続守備機会無失策「205」は当時のセ・リーグ記録であった。
近鉄 1位 栗橋茂 帝京商工ー駒大 1301安打 215本塁打 打率278 プロ入りして3年目の1976年には5月からレギュラーを獲得[1]、主に中堅手として67試合に先発。5年目の1978年には6月から四番打者に定着、初めて規定打席(15位、打率.292)に到達し、20本塁打を放つ。
阪神6位 掛布雅之 1656安打 349本塁打 打率292
オープン戦ながら「7番・遊撃手」として初めてスタメンに起用。当時の正遊撃手だった藤田平が自身の結婚式で欠場したことによる起用だったが、太平洋のエースだった東尾修から4打数2安打を記録した。さらに、3日後の対近鉄バファローズ戦(日生球場)にも、「8番・三塁手」として再びスタメンで起用。内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が実母の逝去で急遽帰郷したことによる起用ながら、4打数4安打という活躍で一躍注目された[15]。結局、オープン戦で18打数8安打2二塁打という好成績を残したことから、レギュラーシーズンでも開幕から一軍に定着。
1974年第十回ドラフト会議
1974年 セーブ記録の採用。 10/14長嶋茂雄引退
南海2位 新井宏昌 PL学園ー法政大 2038安打 88本塁打 通算打率291 小柄で線も細くプロ野球各球団のスカウトにマークされる選手ではなく、卒業後は1年先輩の山本功児が進んだ本田技研鈴鹿に行く予定であったが、当時南海の選手兼任監督であった野村克也がテレビで日米大学野球を観戦していたところ新井のバッティングセンスに着目し、1974年のドラフトで南海ホークスから2位指名を受け入団した。
広島 2位 高橋慶彦 城西高校 1826安打 477盗塁 163本塁打 通算打率280 高橋は、スイッチヒッターとして打率3割を5度、20本塁打以上を4度記録し、33試合連続安打という日本記録まで樹立した[28]。この成功により、一躍日本球界にスイッチヒッターの有効性が知れ渡ることとなり、後進に計り知れない影響を及ぼした。スイッチヒッター転向時、山本一義打撃コーチと行った猛特訓では、朝から晩までバットを振り続け、食事時や寝る時もバットを手離さず、これで体を壊さないのが不思議なほどだと言われていた。その結果、まだ器具を使った筋力トレーニングが取り入れられていない時代に、野球の練習だけでボディビルダーさながらの強靭な肉体を作り上げることに成功した。
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