1985年プロ野球ドラフト会議
1985年11/2猛虎旋風、阪神 初の日本一
巨人ドラフト1位巡るKKコンビの明暗。
日ハム 3位 田中幸雄 都城高 2012安打 287本塁打 通算打率262。 大島康徳のフォームを参考に、構えた時の手の位置を後ろにしてバックスイングを小さくし、足を上げてステップを踏みタイミングを取るようになり、打撃が開花した。1995年頃からは左足を小さく引いてタイミングを取る振り子打法を取り入れている。右肘遊離軟骨の痛みに悩まされてからは負担を軽減するために左腕主体のフォームを作り上げたが、腕を伸ばした際に左肘が回転するため右腕の腕力でカバーしていたという。内角への球を好んで打ちに行き、落合博満からは「インサイドの球に突っかからなければもっと早く2000本安打を達成できたはず。ただ、そういうこだわりが長い現役生活に繋がったのだろう。」と評されている。
西武 1位 清原和博 PL学園 2122安打 525本塁打 通算打率272。
高校野球の甲子園大会での通算本塁打数の最多記録保持者(13本)。日本プロ野球 (NPB) では1986年から2008年までの23年間にわたり、西武ライオンズ、読売ジャイアンツ(巨人)、オリックス・バファローズの3球団でプレーした。
NPBにおける打率(.304)・本塁打(31本)・打点(78点)・塁打(236)の高卒新人記録保持者。通算本塁打200号の最年少記録保持者。サヨナラ安打(20本)、サヨナラ本塁打(12本)、オールスター戦通算打点(36点)、オールスター戦MVP(7回)の最多記録保持者。プロ入りから21年連続2桁本塁打、13年連続20本塁打以上の日本記録保持者。西武ライオンズでの四番出場数1121試合の球団記録保持者。巨人在籍185本塁打の移籍入団選手の最多記録保持者。
通算196被死球はNPB記録。
巨人 1位 桑田真澄 PL学園 173勝 141敗 通算防御率355。
高校野球甲子園戦後最多勝利数投手。
ゴールデングラブ賞を投手最多タイ記録となる計8回受賞している。
PL学園高校時代は、清原和博との「KKコンビ」でチームをけん引し、甲子園通算20勝の戦後最多記録を保持する。プロ入り後は先発投手として読売ジャイアンツを支えた。高校時代はストレートとカーブだけで投球することを自分への試練としていたが、プロ入り2年目の1987年にはスライダーを習得し投球の幅を広げ、1988年にはスプリット(通称・サンダーボール)の習得に取り組んだ。
1986年プロ野球ドラフト会議
ヤクルト 4位 飯田哲也 拓大紅陵高 1248安打 48本塁打 273盗塁 通算打率273。俊足強肩の1番打者、中堅手としてヤクルトの5回のリーグ優勝に大きく貢献した。またヤクルト時代は「トリプルスリーも可能だし、ヤクルトのイチローになれる」と松井優典コーチに潜在能力を高く評価されていた。飯田はケン・グリフィー・ジュニアに憧れ、打撃だけでなく守備・走塁でも魅了する選手を理想としていた[13]。とことん努力したのは30歳からで、それまでは野球への取り組み方に厳しさが足りなかったと引退後に述懐している。
中日 2位 山崎武司 愛工大名電 1834安打 403本塁打 通算打率257。 現役時代は主に中日ドラゴンズ、東北楽天ゴールデンイーグルスで通算27年間にわたり活躍。通算403本塁打を記録した強打者であると共に、本塁打王に2回(1996年、2007年)、打点王に1回(2007年)輝いており、史上3人目のセ・パ両リーグでの本塁打王の達成者である。
日本ハム 1位 西崎幸広 瀬田工高ー愛工大 127勝 102敗 通算防御率325。
140km/h台中盤から後半のキレの良いストレートを軸にスライダー、カーブ、フォークなどを投げる右の本格派としてプロ入りし、80年代末から90年代にかけて日ハムのエースピッチャーとして名を馳せた。
最大の武器であった変化球のスライダーは大学時代にレクリエーションでサイドハンドからカーブを投げてみた際に大きな変化をしたため、本来のフォームでも少し調整してスライダーとして試しに投げてみた所、これは使えると感じたという。そして、試行錯誤の末に右打者から三振を奪う用の大きめの変化をするスライダーと、中指でカットする動作を加える事で左打者のインコースに小さく切れ込み、凡打を誘うスライダー(現在で言うカットボール)の二種類を投げ分けることで大きく投球の幅が広がり、更に右打者が腰を引くような軌道からインコースで見逃しを取るスライダー(インスラ)も身に着けた事で明治神宮野球大会で優勝を飾り、「大学球界屈指の好投手」としてプロのスカウトから注目されるようになるまでに成長を遂げた。
広島3位緒方孝市鳥栖高校1506安打241本塁打通算打率282。
盗塁技術はリーグ随一とも言われ、当時捕手として毎年のように盗塁阻止率No.1だった古田敦也ですら手を焼くランナーだった。またその俊足を生かした外野守備も鉄壁で、1995年から5年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。しかし1998年に右足首を捻挫すると、その後は盗塁数が激減し、ゴールデングラブ賞も1999年を最後に受賞することはなかった。
怪我で走力を失った一方で、1998年オフの秋季キャンプでは当時の三村敏之監督から打撃改造を進言され、マンツーマンで指導を受けた。この時にトップの位置を深くするよう言われたことで、翌年本塁打を量産する要因になったと現役引退後に述べている。
1987年プロ野球ドラフト会議
1987年6/13衣笠(広島)が2131試合連続出場達成。
ロッテ 3位 堀 幸一 海星高校 1827安打 183本塁打 通算打率269。
早い時期から「天才」と呼ばれた選手。独特のオープンスタンスから、ゆったりとステップするフォームでボールを呼び込んで打つ。右打ちの上手さはボビー・バレンタイン監督に「太平洋一」と評され(ただし、パシフィック(リーグ)で一という意味の可能性あり)、右へと決めた時の徹底した打撃は走者一塁時の打席で特に発揮された。なお、器用さもありつつ、4番を打つだけの長打力も持ち合わせていた。
二塁の守備は安定感があり、他にも外野・三塁・遊撃も守れるユーティリティープレイヤーとして長年チームを支えた。
中日 1位 立浪和義 PL学園 2480安打 171本塁打 通算打率285 1987年にPL学園高校野球部の主将として甲子園(第59回選抜・第69回全国選手権)で春夏連覇を達成し、同年のドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受け入団。プロ1年目(1988年)に新人王およびゴールデングラブ賞(高卒新人としては日本のプロ野球〈NPB〉史上初)を獲得し、その後もプロ22年目の2009年限りで現役を引退するまで、中日の中心選手として活躍。NPB史上最多となる通算487二塁打や通算2480安打(NPB歴代8位)を記録した。2022年から中日の監督に就任する。
1988年プロ野球ドラフト会議
1988年3/18東京ドーム完成試合。
南海ホークス身売り、ダイエーホークス誕生。
阪急ブレーブス身売り、オリックスブルーウェーブ誕生。
ロッテ 4位 初芝清 二松学舎大付属高ー東芝府中 1525安打 232本塁打 通算打率265。勝負強い打撃と長打力を生かし、チームの中軸として長いこと安定した成績を残した。二桁本塁打は11シーズンに及び、1995年と1998年に記録した25本塁打は千葉マリンスタジアム移転後の球団記録としては日本人最多だったが、ホームランバッターではなく、鈍足ながらも二塁打の多い中距離型クラッチヒッターだった。左投手に強く、打球方向は左方向が多い。打席では外寄りのストレートを待ちながら変化球に対応し、相手の決め球をいかに仕留めるかにこだわったという。
大洋 1位 谷繫元信 江の川高 2051安打 227本塁打 通算打率241。 落合博満が監督時代に「一番いなくなったら困る選手」と言い切るほど、捕手としての信頼を得ている。実際に2011年(142試合を消化した時点)は谷繁が先発マスクを被った81試合は勝率6割台、そうでない61試合は勝率4割台と、約2割の差があった。また、落合は監督退任会見で、谷繁の名前を挙げて「よい指導者になれる」と褒め称えた。佐々木主浩も、谷繁が捕手の時は三塁にランナーがいてもフォークの比率を下げずに済んだと、キャッチングの上手い捕手として信頼している旨を語った。
広島1位野村謙二郎佐伯鶴城高ー駒大2020安打169本塁打通算打率285。最多安打3回、最多得点2回、トリプルスリー、通算2000安打を達成するなど、特に現役時代前半は広島のリードオフマンとして大いに活躍した。当時は176センチメートル、75キログラムと特に体格に恵まれていたわけではなかったが、それまで主にスラッガータイプの選手が達成していたトリプルスリーを成し遂げた時には、地道なトレーニングによる筋力強化を高く評価されている。プロで実働10年間だった遊撃手での通算打率.293は1,000打席以上ではセントラル・リーグ最高記録(2004年当時)であり、史上屈指の強打の遊撃手だった。思い切りの良い打撃を持ち味とし、賛否両論はあったものの、初球から積極的にストライクを打ちに行った。
1989年プロ野球ドラフト会議
新日本製鐵堺の野茂英雄に、史上最多の8球団が競合。1979年ドラフトの岡田彰布や1985年ドラフトの清原和博の6球団競合を上回る。 抽選で近鉄が交渉権を引き当てた。
1968年に並ぶ大豊作。
近鉄 1位 野茂英雄 成城工高ー新日鉄堺 日米201勝 155敗 通算防御率386。
「トルネード投法」と呼ばれる独特なフォームから繰り出されるフォークなどで三振を量産し、NPBとMLBで活躍した。
NPB時代はパリーグ初の沢村栄治賞を受賞(大阪近鉄バファローズが存在した時代に受賞した唯一の近鉄出身投手でもある)、平成初の投手三冠王を達成、パ・リーグ最多タイ記録となる最多勝利を4回獲得している。
MLB時代にはノーヒットノーランを2回達成、最多奪三振を2回獲得、新人王受賞といういずれもアジア人史上初の偉業を成し遂げている。
日米通算最多奪三振(3122)記録保持者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。
ロッテ 1位 小宮山 悟 芝浦工大柏ー早稲田大 117勝 141敗 通算防御率371。
投げる精密機械」「ミスター・コントロール」という呼び名が付くほどの制球力を持ち合わせているが、小宮山自身は自分の事を制球力はかなりアバウトで、性格も完璧を求めるように見えて次第点を低く設定していたりざっくばらんなところがあると語っている[1]。
ロッテに復帰した2004年は先発だったが、2005年から中継ぎに転向した。中継ぎ転向後は安定感抜群といえるほどの投球内容ではなかったが、敗戦処理を自ら買って出るなどプライドを捨ててでもチームに貢献しようとする姿勢を見せた。
イチローが「最も打ち崩したい頭脳派投手として小宮山さん」と高く評価していた。
大洋 1位 佐々木主浩 東北高校ー東北福祉大 日米49勝 52敗371セーブ通算防御率254日本プロ野球(以下:NPB)・メジャーリーグベースボール(以下:MLB)で抑え投手として活躍。日本人選手として最多となるMLB通算129セーブ、NPB時代だけで歴代3位となる252セーブを記録するなどNPB/MLB通算で381セーブ(日本人史上初の通算300セーブ)を記録し、抑え投手として一時代を築いた。またMLBでアジア人史上2人目(日本人史上2人目)の新人王を受賞している。愛称は「大魔神」(MLBでも “Daimajin” という異名で呼ばれた)。ベイスターズ在籍時は「ハマの大魔神」と呼ばれたこともあった。
阪神 5位 新庄剛志 西日本短大付属高校 日米1524安打 225本塁打 通算打率254
打撃において、年間での打率3割や30本塁打に到達した経験はない。生涯成績ではNPB/MLB通算1500本安打・NPB通算200本塁打といった節目の記録に到達している。タイトル争いの経験としては、阪神時代2000年の最多勝利打点(特別賞)を1点差で逃している。
走塁において、年間盗塁数は一桁台の年がほとんどであるが、阪神時代に年間のチーム最多盗塁を3回(1993年、1997年、2000年)記録。年間三塁打数は阪神時代にリーグ最多を2回(1994年、1999年)記録している。
ヤクルト 2位 古田敦也 トヨタ自動車 2097安打 217本塁打 通算打率294 選手としてヤクルトスワローズ→東京ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。史上14位タイの8度の年間打率3割達成者で、シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は日本記録。捕手としての生涯打率の日本記録保持者。ソウルオリンピック野球の銀メダリスト。
広島 1位 佐々岡真司 浜田商工ーNTT中国 138勝 153敗 通算防御率358 現役時代は投手として広島東洋カープで100勝100セーブやノーヒットノーランを達成するなど活躍した。
広島 4位 前田智徳 熊本工 2119安打 295本塁打 通算打率302。 天才的な打撃センスを誇る強打者。通算安打の内容の50%が引っ張り方向であり、逆方向は僅か18%とプルヒッターの傾向にある。打撃の柔らかさも特徴で、前田は「タイミングをゆっくり取りたい」「スイングは遅いくらいでちょうどいい」と語っている。広島入団後に川上哲治の助言でグリップの位置を修正し、トップが浅く、コンパクトな打撃フォームを生み出した。前田は「まずミートして、球を確実にとらえることが近道だと思ったから、自然とそうなった」と語っている。
1990年プロ野球ドラフト会議
前年の野茂に続き小池秀郎投手(亜大)が、史上最多の8球団の1位指名された。くじを引き当てたのはロッテだが、小池は拒否して松下電器入りした。前年ダイエーの1位指名を拒否し、野球浪人をしていた上宮卒の元木大介内野手は1位で巨人入り。オリックス1位は、のちに米大リーグへ進出する立命大の長谷川滋利投手だった。
ダイエー 4位 下柳 剛 新日鉄君津 129勝 106敗 通算防御率392。 プロ入り当初は150キロを超えるボールを投げられたが、制球力は不十分であり結果が出なかった。阪神時代は「のらりくらり投法」とも称された緩急をつけた投球を行っていた。BS-i(現:BS-TBS)『超・人』において、2006年度の全投球のうちストレートが8%と解析された軟投派にモデルチェンジしている。阪神時代当時、球速は度外視して変化球をどれだけ打者寄りの位置で曲げるかに注力していた。下柳は現役引退後に「球速はまやかし」と主張しており、球が遅くとも活躍している投手がいる一方で球速ばかり追い求めて他のスキルを磨くことを疎かにする投手もいるとその理由を説明している。
ヤクルト 3位 高津臣吾 広島工高ー亜細亜大学 36勝 46敗 286セーブ 通算防御率320日本プロ野球・メジャーリーグベースボール・韓国プロ野球・台湾プロ野球の4つの野球リーグを経験した初の日本人選手。現役時代はサイドスローからの鋭いシンカーを武器に抑え投手として活躍し、ヤクルトスワローズ(現:東京ヤクルトスワローズ)の90年代黄金期を支え4度の日本一に貢献した。NPB歴代2位の通算286セーブ、史上2人目となるNPB/MLB通算300セーブを記録。
オリックス 1位 長谷川滋利 東洋大姫路ー立命館大 102勝 89敗 通算防御率350。 オリックスへの在籍中に近鉄バファローズのエースとして何度も投げ合った野茂英雄が、任意引退の手続きを経て1995年からロサンゼルス・ドジャースへ入団することを知った時には、「先にやられた」という思いと羨ましさが交錯して眠れなかったという。もっとも、その直後の契約更改で長谷川にMLB行きを確約した井箟は、「僕の夢と長谷川の夢が一致した(から確約した)。彼ならメジャーで2桁勝利を挙げられる」とコメント。現に長谷川は、エンゼルス時代の2000年に、オール救援ながら10勝を記録している。
1991年プロ野球ドラフト会議
アマチュアとの関係改善を考え、プロ入り拒否を表明している選手を指名しないという申し合わせが初めてされたドラフトだった。そのため無風ドラフトとなり、上位では駒大・若田部健一投手を4球団が指名したにとどまった。若田部は在京球団を希望していたが、すんなりダイエー入りを決めた。そのほかの1位指名はヤクルト石井一、横浜斎藤隆、オリックス田口壮。またオリックスは、4位で当時投手だった愛工大名電高の鈴木一朗(イチロー)を指名した。
大洋 6位 三浦大輔 高田商高 161勝 169敗 通算防御率356。 横浜大洋ホエールズへ入団した1992年以降、後継球団の横浜ベイスターズ・横浜DeNAベイスターズを通じて一貫して横浜でプレーしたフランチャイズ・プレイヤーである。また「NPBの現役最年長選手および、横浜大洋への在籍経験を持つ最後の選手」として迎えた2016年には「プロ野球の公式戦で投手が安打を放った最多連続年数」というギネス世界記録を達成し、同年シーズン限りで現役を引退。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。
西武 1位 石井一久 東京学館浦安 日米 182勝 137敗 通算防御率380。 投球時に上げた右足の膝が胸の前で構えた右肘に当たる特徴的な投球フォームとノーワインドアップのスリークォーターから投げる平均球速約142km/h、最速97mph(約156km/h)の速球に加え、カーブとも呼ばれるほどの独特の大きな変化を見せるスライダー(スラーブ)、フォークを武器とする。2001年までの通算奪三振率9.70と奪三振が多く、1998年には日本記録(当時)となる奪三振率11.047を記録した(現在の記録保持者は千賀滉大)。メジャーでも2003年までは奪三振率8.46と三振が多く、決め球であるスライダーはメジャーでも高く評され、2002年に対戦したトッド・ヘルトンは「(バッターボックスの)直前まで球種の判別が出来なかった」と語った。一方で好不調の波が激しく、2001年までの通算与四球率4.65と制球力に難があり、1998年にはセ・リーグのシーズン最多記録(達成当時はNPB最多記録)となる20暴投も記録している。
オリックス4位鈴木一朗愛工大名電日米4367安打235本塁打通算打率322。
日本プロ野球とメジャーリーグベースボールで通算28シーズンをプレーし、MLBシーズン最多安打記録保持者(262安打)、プロ野球における通算安打世界記録保持者(NPB / MLB通算4367安打でギネス世界記録に認定)、最多試合出場世界記録保持者(NPB / MLB通算3604試合出場)である。
NPBで最多タイ記録となる首位打者を7回獲得し、パ・リーグ最多記録となる最多安打を5回獲得している。MLBでは10シーズン連続で200安打以上を達成。アジア人史上唯一の首位打者と盗塁王のタイトルを獲得。アジア人史上初のシーズンMVP(アジア人のシーズンMVP受賞は2001年のイチローと2021年の大谷翔平のみ)やシルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞(10シーズン連続)も受賞している。またアジア人史上3人目(日本人史上3人目、アジア人打者史上初)の新人王も受賞した。MLB1年目の2001年シーズンは、MVP,新人王,首位打者,盗塁王,最多安打,シルバースラッガー賞,ゴールドグラブ賞のタイトルを同時に獲得している。
NPBでは首位打者7回、打点王1回、盗塁王1回、最高出塁率5回、最多安打5回などを獲得し、2000年オフに日本人初の野手としてMLBに移籍。MLBでは首位打者2回、盗塁王1回を獲得した。2004年にはMLBのシーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、コミッショナー特別表彰を受けた。2016年にはMLB通算で3000安打、500盗塁、さらにNPB/MLB通算でのプロ野球における通算最多安打数(ギネス世界記録)を樹立するなど活躍した。
近鉄 4位 中村紀洋 渋谷高校 2089安打 404本塁打 通算打率266。
中村の打撃フォームは、狭いスタンスでバット上段に構え足を大きく上げてタイミングを取る。平均より長い88cm(900g)のバットを使用していた。
5回にわたる左手首の手術の影響で左手の握力は、40kg程度になっている。
同じ右打者でスラッガーの落合博満に憧れていた。落合が日本ハムに所属していた1997年、中村の所属する近鉄との対戦時に、中村が出塁後、一塁を守る落合に「今の打席、どうでした?」と訊くと、「遅い」と一言だけ指摘を受けた。再び出塁した際も「遅い」の一言のみ。しかし、その時の中村には何が「遅い」のか理解できなかった。後にこれは「スイングの始動が遅い」という意味で、原因は「構えに入った時点で90%以上は後ろの右足に体重をかけるべきで、ピッチャーのモーションに合わせて体重を移動させていたのでは遅い」からだと理解できたという。
広島 4位 金本知憲 広陵ー東北福祉大 2447安打 470本塁打 通算打率286。
無類の勝負強さと優れた選球眼が魅力のスラッガー。好球をじっくり待てる辛抱強さもあり、シーズン最多四球を通算6度記録している。
“走攻守”3拍子揃ったプレーで、広島時代の2000年には打率.315、30本塁打、30盗塁でトリプルスリーを達成。阪神移籍後も中軸として活躍し、2度のリーグ優勝に貢献。骨折しても試合に出続けるなど不屈の精神力を誇った。
平成(1989年1月8日 – 2019年4月30日)における最多記録として、通算本塁打数(通算476本塁打の全てを平成の間に記録している、以下同じ)、通算安打数(2539安打)、通算打点数(1521打点)、4番打者としての出場試合数(1346試合)、クリーンナップとしての出場試合数(2023試合)を記録している。
連続無併殺打(1002打席)・連続4番先発出場数(880試合)の日本記録保持者であり、盗塁・本塁打・代打本塁打・猛打賞においてはセントラル・リーグ最年長記録を保持している。
1992年プロ野球ドラフト会議
甲子園での5打席連続敬遠で一躍有名となった星稜高・松井秀喜外野手には、中日、阪神、ダイエー、巨人が1位指名。最後のくじを引いた巨人長嶋監督が見事、松井を射止めた。ヤクルトは、社会人NO.1投手伊藤智仁(三菱自動車東京)を3球団競合の末、獲得した。2年前にロッテの1位指名を拒否した小池秀郎投手(松下電器)は、近鉄に1位指名され入団した。
巨人 1位 松井秀喜 星陵 日米 2643安打 507本塁打 通算打率293。
NPB・MLB通算で507本の本塁打を打った。巨人時代は、日本野球界を代表する長距離打者で、10年間で332本塁打を放った。高校卒業から10シーズンでの本塁打数は、王貞治の356本に次ぐ歴代2位で、300本以上打った打者は王と松井の2人だけである。3割を超える打率を維持しながら、本塁打・打点で常にリーグトップクラスの成績を残し、OPSでも、通算4000打数以上の選手では王貞治に次いで歴代2位となる通算.996。
MLB移籍後は、勝負強さが魅力の中距離打者として活躍した。タイトル争いをする程の数値は残せなかったものの、アジア人選手としてMLBシーズン31本塁打は大谷翔平に次ぐ歴代2位(通算175本塁打は日本人歴代1位)、シーズン192安打はイチローに次ぐ歴代2位(通算1253安打もイチローに次ぐ歴代2位)、長打率・OPSでは通算記録で歴代1位となっている。 アジア人選手では、松井と大谷の2選手しか達成していないMLBシーズン30本塁打以上(40本塁打以上は大谷のみ)と、日本人選手唯一の5度のシーズン20本塁打以上を記録している。2007年(5年目)にはアジア人史上初となるMLB通算100本塁打、2010年(8年目)には150本塁打を達成。MLBで通算100本以上の本塁打を打っている日本人選手は松井(175本塁打)、イチロー(117本塁打)、大谷(現役)の3選手だけである。現役最終年となる2012年には2本の本塁打を放ち、MLB通算175本塁打で現役引退した。
横浜2位佐伯貴弘尽誠学園ー大商大1597安打156本塁打通算打率277。
勝負強い打撃で「マシンガン打線」の一角を担い、1998年の横浜ベイスターズの日本一に貢献した中距離打者。その後も4番を任されるなど長きにわたりチームを支えた。
横浜に入団後、巨人に同期入団した松井秀喜の向こうを張って、自ら松井の愛称「ゴジラ」から由来する「メカゴジラ」という愛称を名づけ、ヘルメットに”MECHA”と書かれたシールを貼り付けていた。しかし、ファンにはあまり浸透しなかった(チームメイトからは「メカ」と呼ばれている)。
1993年プロ野球ドラフト会議
この年から社会人、大学の1、2位指名選手に限り逆指名権が与えられた。これにより無風化に拍車がかかり、史上初の抽選なしドラフトとなった。五輪開催年だった前年に比べ、人材不足といわれたが、逆指名で西武1位石井貴投手(三菱重工横浜)、ダイエー2位に小久保裕紀内野手(青学大)が入った。また、高校生で唯一注目されていた平井正史投手(宇和島東)は、オリックスが単独指名で獲得した。
ダイエー 2位 小久保裕紀 星林高ー青学大 1962安打 409本塁打 通算打率275
通算413本の本塁打を量産した一本足打法の長距離砲で、独特の大きな弧を描く本塁打が特徴。アッパースイングで打球を高く上げてホームランを放つ。
自身は「ヒットの延長がホームランではなく、自分のスイングの延長にホームランがある」という見解を持っている。松中と同じ試合で本塁打を打つMKアベック弾を放った試合では、34勝5敗で勝率8割7分2厘と高勝率を誇り、ビジターでアベック弾を放った試合では2008年4月22日の楽天戦で敗れるまで無敗であった。
満塁に強く、13本塁打を放っている。過去12勝1敗と勝率も高い。1999年8月20日に史上7人目の満塁ランニング本塁打を放っている。このイニングに秋山がスタンドインによる満塁弾を打ち、史上2回目となる「1イニング2本の満塁本塁打」の快挙を達成している。満塁打率は.429を記録した。
ロッテ7位福浦和也習志野高校1839安打115敗通算打率289。
安定した縦軌道のスイングから広角にライナーではじき返す打撃が特徴。ボールを捉える技術に長け、元監督の山本功児からは「バッティングに関しては天才的なセンスの持ち主で、バットコントロールは天性のものだ」と評された。また、現役晩年時の監督・井口資仁や習志野高の先輩・掛布雅之は福浦の特筆すべき点としてバッティングの柔らかさを挙げ、タイミングを崩されても対応できる能力を高く評価している。
左投手の外寄りの球を苦手としていたが、首位打者を獲得した2001年に打率.408を記録して克服したことで飛躍を果たし、同年から6年連続で打率3割以上を記録。2010年代は5年間で代打打率.315を記録するなど、代打の切り札としても名を馳せた。二塁打が多いのも特徴で、放った二塁打は全安打の19.4%と高い割合を占め、2度のシーズン最多二塁打と史上唯一の3年連続40本以上の二塁打を記録している。
日本ハム 3位 金子誠 常総学院 1624安打 84本塁打 通算打率257 1996年から01年まで二塁手、02年から2012年まで遊撃手としてファイターズ内野陣を支えた。特に田中賢との二遊間は山田久志から「12球団一と言われた中日の荒木雅博・井端弘和と遜色ない」「金子なんて井端以上だよ。肩は強いし、送球がぶれない。守備位置も金子のほうが後ろだから、守備範囲も広くなるし、それだけ深い三遊間でゴロでとってもノーバウンドで投げてアウトに出来る」と絶賛された
西武 3位 松井稼頭央 PL学園 日米 2705安打 233本塁打 通算打率285全身バネとも称される高い身体能力を持ち、プレーの美しさ、パフォーマンスの高さで人を魅了する能力を持つ選手。俊足、巧打、長打、強肩、好守を持つ、いわゆる5ツールプレイヤーとして評価され、「史上最強の一番打者」とも称された。『江川卓・スカウティングレポート2000』では、PERFORMANCEの3つの項目である「打力(Hitting)」、「守備力(Fielding)」、「走力(Running)」で、5つ星評価でFielding、Runningが5、Hittingが4.5、『江川卓・スカウティングレポート2001』ではFielding、Running、Hittingすべて5という評価が付いており、日本球界最強のオールラウンド選手と呼ばれた。一方で多くの怪我を経験し、30歳前後からは離脱が増えている。
1994年プロ野球ドラフト会議
駒大に合格している城島健司捕手(別府大付)をダイエーが強行指名した。プロ、アマの関係に再び溝が入ると懸念されたが、コミッショナー、高野連、駒大がいずれも静観したためスピード解決となり、ダイエー入りが決まった。近鉄とオリックスが嘉勢敏弘投手(北陽高)を、横浜と中日が紀田彰一内野手(横浜高)を重複指名し、オリックスと横浜がそれぞれ獲得した。
ダイエー 1位 城島健司 別府大付属 日米1837安打 292本塁打 通算打率289
ドラフト1位でホークスに入団。ホークス時代には正捕手として3度のリーグ優勝、2度の日本一に貢献。2009年のWBCでは正捕手として日本代表に貢献している。アテネオリンピック野球の銅メダリスト。2012年阪神タイガースで現役引退。
引退後は釣り関係のTV番組に専ら出演した他、タレントとしても活動した後、2020年より福岡ソフトバンクホークス球団会長付特別アドバイザーに就任。
ヤクルト 2位 宮本慎也 プリンスホテル 2133安打 62本塁打 通算打率282 名球会入りしている打者で通算2000安打・400犠打を記録している唯一の選手である。際どい球をファールで粘り、甘く入った球をしとめるしぶとい打撃スタイル。左投手との相性が良く、得意としていた投手に高橋尚成、内海哲也を挙げている。その一方で、右のサイドスローやアンダースロー投手との相性が悪く、苦手としていた投手に鈴木義広、梅津智弘、渡辺俊介、牧田和久を挙げている。現役晩年にボールを引きつけ過ぎず、バットを軽く出して当てることで克服したという。
ヤクルト 3位 稲葉篤紀 中京ー法大 2149安打 258本塁打 通算打率286
規定打席に達したシーズンで6度の3割を記録し、2007年には首位打者を獲得するなど巧打に長け、腕をコンパクトにたたんで体に巻きつくようなスイングで内角を打つのがうまく、日本ハム時代の同僚であった新庄剛志からは「稲葉君は内角打ちの天才」と絶賛された。ヤクルト時代にはストレートに滅法強く、変化球には弱かったが、日本ハム移籍後は変化球に強くなり、2009年には曲がる系のボールに対して内角の打率.359、同じく真ん中で.568を誇った。特にカーブを得意とし、森本稀哲曰く「世界一カーブが好きな男性」だという。また、ヤクルト時代には通算打率.232と左投手を苦手としていたが、日本ハム移籍後には2010年までの通算打率.295と克服している。この理由については「具体的には、引っ張らずに左方向に打ったり…。現役中は、これ以上は言えません」と語っている。
通算でプロ野球歴代5位となる429二塁打、本塁打は261本と、一定の長打力もある。
西武 3位 西口文也 立正大学 182勝 117敗 通算防御率371 現役時代はキレの良いスライダーを代名詞としていた。変化の大きいものから小さいもの、横変化の強いものや縦変化の強いものと様々な種類のスライダーを投げ分け、特に2ストライクに打者を追い込んでからは、時にフォークボールと見間違えられる程に鋭く縦に変化し、打者にスライダーを空振りしたのではなくフォークを空振りしたかのようなスイングをさせることがあった。好調時には高い確率で打者の空振りを誘い、早いカウントの時は小さな変化でストライクを稼ぐというように使い分けていた。速球はかつては150km/h以上(最速152km/h)を計測することもあったが、晩年は平均球速約138km/hに収まっていた。
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