1978年入札方式採用。各球団が1順ごとに希望選手を提出し、単独指名の場合は確定、重複の場合は抽選、外れた球団は順に新たに指名する。
高校・大学と1位指名を拒否した江川卓は、翌年のドラフト前日に巨人と契約。セリーグは却下。
1975年プロ野球ドラフト会議
パ・リーグ指名打者制開始。10/10長嶋茂雄監督率いる巨人初めての最下位。10/15広島カープ初優勝
巨人 1位 篠塚和典 銚子商高 1696安打 92本塁打 通算打率304 巧みなバットコントロールと華麗な守備で鳴らし、”芸術的”と言われるプレーで、シーズン打率3割以上を5年連続も含めて7回記録。通算打率も.304と3割を超えている。年間失策数も僅か2回のみの年があるなど、守備機会の多い二遊間の選手としては驚異的であった。1981年は巨人では主に3番打者や2番、6番打者、晩年は1番打者の打順を担った。1981年の.357という高打率は巨人の日本人野手として1973年の王貞治(.355)、1961年の長嶋(.353)の記録を凌ぐ、高打率であった(1951年の川上哲治は91試合で.377)。ただし本塁打は、最多の年でも13本、通算でも100本に満たない。他の打順ならともかく3番打者としては、長打力が物足りなかった。
巨人 3位 中畑清 駒大 1294安打 171本塁打 通算打率290
入団当時の巨人は、王貞治、張本勲、土井正三、高田繁らが現役で活躍しており、選手層が厚かったため、入団後3年間は一軍での出番に恵まれなかった。守備固め要員とはいえ2年目に一軍100試合出場を果たした二宮を横目に二軍中心の下積み生活が続く。
1978年に開催された日米野球第1戦のシンシナティ・レッズ対巨人戦で、高田に代わって途中出場しマリオ・ソトから2点本塁打を放った。レッズ監督のスパーキー・アンダーソンは、長嶋に「あの三塁手(中畑)はハッスルしてファイティング・スピリットに溢れているのがいい。バッティングは荒削りだけど、ぜひ使うべきだ」と進言した。
1979年より一軍に定着した。同年は三塁手の高田が怪我で離脱した際に先発で起用され、高田の復帰後もレギュラーを守った。規定打席には届かなかったが、打率.294を記録。新人王有資格者だったが、シーズン終盤に骨折したこともあり、新人王は逃した。
阪急 2位 蓑田浩二 大竹高ー三菱重工三原 1286安打 204本塁打 通算打率279。1982年後期からは3番打者としての起用が中心となり、1983年には打率.312(リーグ5位)、32本塁打、35盗塁を記録、中西太以来30年ぶり史上4人目のトリプルスリーを達成。甘いマスクが女性ファンにも人気を呼び、「打ってよし、守ってよし、走ってよし、顔もよし」とマスコミに報道されたこともある[11]。この記録はオールスター前くらいに達成ペースにあることを番記者から言われ、中西以来30年ぶりの快挙と知り、強く意識したという[6]。特に意識したのは盗塁で、当初は3番という立場で4番打者(水谷実雄、ブーマー・ウェルズ)の前でアウトになってはいけないという意識から盗塁は少なかったが、シーズン後半は意識して盗塁を増やし、達成した。なお、この年は守備面でも両リーグ最多の17補殺を記録した。
中日 1位 田尾安志 同志社大 1560安打 149本塁打 通算打率288 現役時代は俊足巧打の外野手として鳴らした。甘いマスクと華のあるプレー、実直な姿勢などが幅広い年代のファンに愛され、イチローも子供の頃に憧れた選手として名前を挙げている。打席での構えでバットをグルグル回す「円月打法」から広角に打ち分け、安打製造機と呼ばれた。
広島 1位 北別府 学 都城農高 213勝 141敗 通算防御率367
直球の球威や変化球の切れ味に飛び抜けたほどのものはなかったが、それらを補って余りあるほど優れた制球力から「精密機械」の異名を取り、投手王国と呼ばれた1980年代の広島の主軸として活躍した。直球は投げる比率は低くて最高球速は144km/hで、球種はスライダー、カーブ、シュート、シンカーなどであった。特にスライダーの出し入れで内と外を使い分ける投球術が持ち味だった[16]。
全盛期は非常に理想的な美しい投球フォームであった。広島大学の研究者が北別府の肩の動作解析を行い、力学的にどこにも無駄な力が入っていない、自然な肩の回転に驚いたというエピソードがある
1976年プロ野球ドラフト会議
後楽園球場に人工芝完成。10/12スポンサー変更で太平洋クラブはクラウンライターに。
大洋1位斉藤明夫花園高校ー大商大128勝125敗通算防御率352。
1977年から1993年まで、大洋ホエールズ⇒横浜大洋ホエールズ⇒横浜ベイスターズ一筋で、力強いストレートとスローカーブを武器に活躍。ストレートは140キロ前半で球種はその2つだけだったが、抜群のコントロールと緩急で名だたる強打者も抑えた。
先発としても抑えとしても活躍したため、右投げ投手としてプロ野球史上初の100勝100セーブを達成している(通算128勝133セーブ)。抑えでは1イニングだけではなく回跨ぎの登板が当たり前だったため、抑えでありながら規定投球回に到達した年もあり、その登板内容から、名球会の基準には達していないが平松政次などから名球会入りを推す声もある。
苦手にしていた打者は読売ジャイアンツの篠塚和典と広島東洋カープの高橋慶彦であった。
中日3位宇野勝1620安打338本塁打通算打率262。1980年代が全盛期で主に5番を打ち、長距離打者として活躍したが、本塁打王を獲得した年はリーグ最多の117三振もあわせて記録する(前年も97三振でリーグ最多を記録)など、三振が多かった。一般的には遊撃手は守備での負担が大きいといわれるが、宇野の場合は三塁手や外野手として出場したときが打撃不振になることが多かった。
阪急 1位 佐藤義則 日大 165勝 137敗 通算防御率397。 愛称は「ヨシ」。楽天への入団が決まった直後には、日本ハム時代の教え子であるダルビッシュ有が、当時楽天に在籍していた田中将大に対して電話で「ヨシさん(佐藤義則)の言うことは間違いない」というアドバイスを送った。より速い球を投げられるようダルビッシュ有のフォームを改良、上半身に負担のかかる田中将大のフォームを改造し、エースへと育てた。長所を消さず、個々に適したフォームを伝授する指導には定評がある。
星野仙一からは「日本一の投手コーチ」と言わしめた。投手コーチを務めたオリックスの1球団を除いた阪神と日本ハムと楽天とソフトバンクの4球団で優勝していることから優勝請負人と言われている
広島 1位 山崎隆造 崇徳高校 1404安打 88本塁打 通算打率284。 1983年には開幕戦から山本浩二(左翼手にコンバート)に代わって中堅手を任され、レギュラー定着を果たした。高橋とともにチャンスメーカーとして起用され、6月以降は中堅手の座を長嶋清幸に譲り、自身は主に右翼手を務めるようになる。同年は打率.305(リーグ9位)に達し、翌1984年は打率.319(7位)、1985年は打率.328(4位)と3年連続で3割を記録。ベストナイン3度、外野手としてゴールデングラブ賞を4度受賞、1984年には26試合連続安打を記録するなど、走攻守三拍子揃った「赤ヘル野球」の体現者として活躍した。
1977年プロ野球ドラフト会議
1977年 9/3 王貞治世界新記録756本塁打達成‼
大洋 3位 遠藤一彦 学法石川ー東海大 134勝 128敗 通算防御率348。 オーバースローからのストレートの球速は、本人によれば大学時代で135~6km/h程度で、プロ入り後も140km/h台前半だったという。ただし、プロ入り後は140km/h台後半の球速を幾度も記録している。持ち球も入団直後はカーブしかなかったが、入団2年目に最大の武器となるフォークを習得した。フォークは2種類あり、シュート気味に落ちるフォーク、スライダー気味に曲がりながら落ちるフォーク(今で言うところのフォッシュ)。そのほかチェンジアップも持ち球とした。
大洋 6位 屋鋪 要 三田学園 1146安打 58本塁打 327盗塁 通算打率269。身体能力が非常に高く、スーパーカートリオの中でも一番の俊足と言われた。高木豊曰く屋鋪は球界の中でも一番足が速かったという。その足の速さは守備でも際立ち、抜かれたと思った打球も難なく追いつくプレーが多く見られた。瞬発力のあるバッティングを持ち味とし、足のある選手だったが「野球の醍醐味はホームラン」との思いも強く、一発のあるバッターでもあった。「一球待て」やバント指示など制約を嫌い、自由に打つ事を得意とした。本能でプレーするタイプだったが故にスーパーカートリオの中でも牽制死が一番多く、大きくリードを取ると牽制に意識が向いてしまうために盗塁技術のある選手の中でもリードは小さめだった。
ヤクルト 4位 尾花高夫 PL学園ー新日鉄堺 112勝 135敗 通算防御率382。高校・社会人と線が細く球威不足で無名だった。当初、社会人捕手の中出謙二(後に南海に入団)を視察に来た、捕手出身のヤクルトのスカウト・片岡宏雄の目に留まる。当時の監督だった広岡好みの選手と考え指名したところ、広岡に気に入られてすぐに使われ、順調に主力投手に成長していった。
一度も押し出し四球を記録しておらず、2203イニング連続押し出し四球無しはプロ野球記録である。この間、満塁で打者と対戦した回数は163回。また、毎イニング間にベンチ前でウォーミングアップすることなく登板出来るほど、肩の仕上がりが早かった。
中日 2位 小松辰雄 星陵 122勝 102敗 通算防御率344。
現役時代は中日ドラゴンズで活躍。昭和最後の投手三冠王を達成している。
スピードガンが日本で使用され始めた頃にその活躍で注目を浴びた事から『スピードガンの申し子』と呼ばれた。
1978年プロ野球ドラフト会議
1978年 10/4ヤクルトスワローズ初優勝!クラウンライター、西武に身売り、本拠地福岡から埼玉へ。 11/21江川卓の空白の一日。
阪神1位江川卓作新学院ー法政大135勝72敗通算防御率302。江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている[50](プロ入り後の最速は151km/h[51])。スピードガンが各球場に導入された頃、江川のストレートの球速が135km/h前後と表示される記録映像が残っている。これについて掛布雅之、西本聖、槙原寛己など多数の人物が異口同音に「江川の球速が140km/hを下回ることはありえない」と証言、当時のスピードガンは精度が低く、数値の正確さには疑問があると指摘している。特に掛布は「最低でも150キロ、好調時は155キロ以上出ていただろう」と述べている。2021年12月4日のGoing!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年の中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された。
ロッテ 3位 落合博満 秋田工高校ー東芝府中 2371安打 510本塁打 通算打率311
通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打で、初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打だった。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという[83]。
リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している。
阪急 2位 石嶺和彦 豊見城高校 1419安打 269本塁打 通算打率273。 入団当初から長打力を評価され、10年連続二桁本塁打の記録を残している。また、チャンスに非常に強いと評価されていた。バッティングに正解はなく、体型や筋力に応じてそれぞれ適切な打撃フォームがあり、一番振りやすい形がベストだという持論を持っている。1986年から1993年にかけて阪急ブレーブスの強打の指名打者として、ブーマー・ウェルズ、藤井康雄と共にブルーサンダー打線の中心選手として活躍した。
1979年プロ野球ドラフト会議
1979年10/16近鉄バファローズ初優勝。
阪神 1位 岡田彰布 北陽高校ー早稲田大 1520安打 247本塁打 通算打率277。長らく阪神タイガースの5番として活躍した強打者。打撃ではタイトル獲得経験はないものの、打率・打点・本塁打の全てで結果を残せる選手であった。また、真面目な人柄から自らの成績よりも、チーム状況に応じた打撃を心掛けていた。守備でも名手であり、リーグ優勝・日本一に輝いた1985年には二塁手部門でダイヤモンドグラブ賞を受賞している。
中日 1位 牛島和彦 浪商 53勝64敗126セーブ 通算防御率326。
1982年は鈴木孝政、小松辰雄の後を継いでリリーフエースとなる、17セーブを挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献。同年の西武との日本シリーズでは4試合に登板。第3戦では8回から鈴木孝政のリリーフとして起用され、シリーズ初勝利を記録。第4戦でも9回に小松辰雄をリリーフして無失点に抑え、シリーズ初セーブを挙げる。しかし翌1983年は、昨年の8月上旬からヒジを痛めてしまった影響で、リリーフ失敗が続く。気分転換も兼ねて先発に回って初の2ケタ10勝を挙げたが、シーズンを通しての安定感には欠けた。
1984年は再びクローザーとなって自己最高の29セーブを挙げ、最多セーブ投手となる。1985年シーズン途中で先発に転向し、6勝8セーブで、6完投もあった。
1980年プロ野球ドラフト会議
1980年 11/4 王 貞治 引退!
西武 1位 石毛宏典 駒大ープリンスホテル 1833安打 236本塁打 通算打率283。
1980年度ドラフト会議を前に、プロ入り拒否の態度を示していたが、直前に西武に1位指名であればプロ入りすると表明する。ドラフト会議では、西武ライオンズと阪急ブレーブスから1位指名を受け、西武が石毛の指名を引き当て、入団した。
1981年、ルーキーイヤーから遊撃手として開幕スタメン出場し、ロッテの落合博満と首位打者争いを演じるなど活躍した。長嶋茂雄以来の、新人打者として規定打席に達しての打率3割を達成し、新人王を獲得した。
大洋 3位 高木豊 多々良学園ー中大 1716安打88本塁打321盗塁 通算打率297。俊足・巧打・堅守を兼ね備えた二塁手として長きにわたり活躍した。守備では二塁の他、三塁、外野、遊撃、一塁と内外野全てのポジションを経験している。1987年には二塁手として守備率.997を記録し、2020年に菊池涼介に抜かれるまで長らくプロ野球記録(1994年の白井一幸と同率)であった。 通算321盗塁を記録し盗塁王も獲得したが盗塁成功率は.643と低く、通算250盗塁以上を記録した選手の中では最も低い。通算盗塁刺178は歴代4位。
巨人 1位 原辰徳 東海大相模ー東海大学 1675安打 382本塁打 通算打率279。1980年代から1990年代中盤にかけて巨人の4番打者を務め、ON時代後の巨人を支え、選手としては6度のリーグ優勝、3度の日本シリーズ優勝に貢献。入団から12年連続で本塁打20本以上を記録し、4番としての出場試合数は球団歴代4位である。
2018年シーズン終了時点で、各スタッツは歴代で三振57位、併殺打122位、犠飛13位である。
ON時代後の巨人の4番を務めたことから前世代の偉大な4番打者と頻繁に比べられ、現役時代より叩かれ役となることが多かった。特に「勝負弱い4番打者」という批判が目立った
巨人 2位 駒田徳 広桜井商高 2006安打 195本塁打 通算打率289。 満塁時の打席で無類の勝負強さを見せ、「満塁男」の異名を誇った。1シーズンでの本塁打数は最高で27本、通算195本塁打ながら満塁本塁打数は歴代5位の13本を記録し、満塁本塁打を打った試合はすべて勝利している。満塁本塁打の率で見れば、実に本塁打約15本に対して満塁本塁打1本という群を抜いている成績である。13本中、横浜在籍時に8本を記録しており、横浜時代(横浜時代の通算本塁打は63本)に限れば本塁打約8本に1本が満塁弾であった。また1994年から1999年まで6年連続で満塁本塁打を放っており、これはイチロー(NPB通算118本)と並び日本記録である。満塁時の通算打率.332(220打数73安打)、打点200。
近鉄2位 大石大二郎 亜大 1824安打 148本塁打 415盗塁 通算打率274。
歴代7位の通算415盗塁を記録(2013年シーズン終了時)。
大石は福本豊を史上最高のプロ野球選手に挙げており、走攻守の総合的な能力では王貞治や長嶋茂雄にも勝るとしている。現役時代は福本に近づくことを目標とし、走塁に関してだけは7合目ぐらいまで到達できたと述懐している。いてまえ打線のトップバッターとして、ホームランを意識して打席に臨んでいた[7]。1984年には29本塁打を記録している。20代の頃は1,120グラムもあるすりこぎ型のバットを使っていたが、右肩のケガを機に1,060グラムのものに変更した。バッティングに関しては特に教えられた記憶がないといい、グリップを上げて叩きつける打法を持ち味としていた。
広島 1位 川口和久 鳥取城北高 139勝 135敗 通算防御率338。 一番得意な球種は速球で、そこに同じフォームで投げるカーブやスライダーを加えるという投球スタイルが基本だった。プロ入り直後に安仁屋宗八から助言を受け、右打者はインコースのクロスファイヤーへの対応を第一に考えてくるので、そこに力のある速球を投げられれば抑える、と考えるようになった。体から近くバットの芯に当たりにくいインハイを突くためにグリップのやや下を狙って投げ、打者が手を出す範囲で最も厳しいコースを突こうとしていた。インハイでファウルを打たせられれば、アウトローの緩い変化球で三振を楽にとれたという。一方、左打者の場合はアウトコースに目標物がなくて細かい制球が難しいため、インコースへの制球により気を使った。
1981年プロ野球ドラフト会議
西武 1位 伊東勤 所沢高校 1738安打 156本塁打 通算打率247。 1984年、4月11日の日本ハム戦(後楽園)で当時正捕手であった黒田正宏が大宮龍男の折れたバットを左側頭部に受けて病院に運ばれる。すぐ電話があり「上がってこられないか」と言われ、翌12日に二軍で一番球が速い新人の渡辺久信の球を受けてゴーサインが出て、一軍に合流した。ぶっつけ本番で14日の阪急戦からスタメンに入り、同年は113試合出場のうち108試合で先発し、オールスター出場も果たす。現役時代は捕手として歴代3位となる2327試合に出場し、西武黄金時代の正捕手として活躍した。
西武 6位 工藤公康 名古屋電機高校 224勝 142敗 通算防御率345。 MAX149km/hのストレートとスピンの効いた大きなカーブが武器。晩年になるにつれ、スライダーやシンカーなど徐々に球種を増やしていったが、基本的にはストレートとカーブを軸としたピッチングを組み立てていた。本人が自著にて「ストレートとカーブだけではプロのバッターは抑えられません。でも、それぞれを何種類か持っていればいいのです。要は緩急をつけることです。 選手時代は14度のリーグ優勝、11度の日本一を経験。西武ライオンズ・福岡ダイエーホークス・読売ジャイアンツ(巨人)の3球団で日本シリーズを制覇し、優勝請負人と呼ばれた。日本シリーズ通算最多奪三振(102奪三振)記録を保持する。また、最高勝率もNPB最多タイ記録となる4回獲得している。
巨人 1位 槙原寛己 大府高 159勝 128敗 通算防御率319。 若手時代からそのストレートの速さについては言われていたが、かつて巨人のエースだった西本聖は「歴代見たピッチャーの中で文句無しにマキが一番球が速い。デビュー当時は江川さんより上だと思った」と槙原のストレートを評している。槙原が一軍に昇格した1983年の春季キャンプでは、ホテルで同室となったがその際「俺は君より速いボールを投げるピッチャーはこれまで見たことがない。俺に君のストレートがあれば年間30勝だって出来る」と槙原を励ましたという。また、2001年9月30日の現役引退セレモニーでも原辰徳(当時はヘッドコーチ)から「槙原君、 一軍のマウンドで初めて投げた時 150kmのストレート 忘れません」と賛辞を贈られていた。
1982年プロ野球ドラフト会議
巨人 1位 斎藤雅樹 市川口高 180勝 96敗 通算防御率277。
サイドスローの投球フォームで1989年から1990年代の巨人投手陣を支え「平成の大エース」と呼ばれた。
連続完投勝利記録(11)とシーズン最多完封回数(7)のNPB最多記録を持ち、2年連続20勝達成などでセ・リーグ最多記録となる最多勝利を5回獲得、セ・リーグ最多タイ記録となる最高勝率を3回獲得、セ・リーグ投手最多記録となるベストナインを5回受賞している。平成初の沢村栄治賞を受賞し、史上4人目の沢村栄治賞3回受賞も達成した。
巨人 4位 川相昌弘 岡山南高校 1199安打 43本塁打 通算打率266。 現役時代は読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズで活躍。通算533本の犠牲バントは世界記録で、通算犠打成功率は9割を超え、「犠打職人」「バント職人」「バントの神様」の異名を持つ。ゴールデングラブ賞6回受賞の守備力を誇る遊撃手でもあった。
1983年プロ野球ドラフト会議
1983年 6/3 福本 豊 通算939盗塁 達成!
ヤクルト 2位 池山隆寛 市尼崎高校 1521安打 304本塁打 通算打率262。フルスイングを信条としており、その豪快なスイングから「ブンブン丸」の愛称で親しまれる。そのバッティングスタイルから現役時代は、三振が多かったものの、1988年から5年連続で30本塁打を達成するなど、ヤクルトスワローズ一筋で19年間にわたり活躍したフランチャイズ・プレイヤーであった。
中日 5位 山本昌弘 日大藤沢高 218勝 164敗 通算防御率345。 現役時代の全ての期間において中日ドラゴンズに在籍したフランチャイズ・プレーヤーで、日本記録である実働29年間の大半を先発左腕として活躍し、6度のセ・リーグ優勝、1度の日本一を経験した。また、2006年にはNPB史上最年長、左腕に限れば世界最年長となる41歳でのノーヒットノーラン、2008年には同じく史上最年長での200勝を達成。2015年10月にNPB史上初となる50代での登板を花道に引退するまで「中年の星」と呼ばれ、注目された。
南海6位佐々木誠水島工高1599安打170本塁打242盗塁通算打率277。
打撃、走塁、守備の全てを兼ね備えた選手として、全盛期には秋山幸二と共に「メジャーに一番近い男」と称された。
1990年の日米野球終了後、アメリカ代表監督のドン・ジマーから、秋山とともにMLBに連れて帰りたい選手として名前を挙げられ、ドン・ベイラーがダイエーで臨時コーチを務めた際にも「いつでもMLBで通用する」と評価された。佐々木自身は目標とする選手に簑田浩二の名前を挙げ、トリプルスリーを達成できる走攻守の三拍子そろった選手を目指していた。
阪急 5位 星野 伸之 旭川工高 176勝 140敗 通算防御率364。 タイトル獲得は多くないものの、11年連続二桁勝利を記録するなど、パ・リーグを代表する投手として活躍した。その実績と端正な顔立ち、およそ野球選手らしくない細身な体型から同リーグの西崎幸広・阿波野秀幸・渡辺久信らと共に「トレンディエース」と呼ばれ、「星の王子さま」の愛称で親しまれた。
西武 1位 渡辺久信 前橋工高 125勝 110敗 通算防御率367。 常時140km/h台の速球(プロ入り後の最高球速は150km/h)を軸に、スライダー・カーブ・フォークボールを交える典型的な力投型投手であり、コントロールの緻密さには欠けるものの球のキレと球威で勝負するタイプであった。また、1989年・1990年には2年連続で投球回数が200イニングを突破するなど、体力や回復力にも恵まれた投手であった。なお、その投球スタイル故に奪三振が多かった代償として被安打・被本塁打もまた多く、1989年・1990年には最多被安打を、1989年には最多被本塁打を記録している。
西武2位辻発彦佐賀東高ー日本通運1462安打56本塁打通算打率282。
辻は社会人野球では4番を務めたが、西武ではAKD砲の脇を固めるつなぎ役(1980年代は主に9番、1990年代に入ってからは主に1番)となり、首位打者も獲得した。
1kg以上もある重いバットを短く持ち、気持ちで打ちに行くタイプだったと辻は自ら評価している。実際、ヤクルト在籍時に監督の野村から狙い球の絞り方や、カウントに応じた対処法といった頭を使う部分をミーティングで伝えられたが、上手く理解できずそのことを正直に話したところ、「基本真っ直ぐ待ちで対応できるオマエには必要ない」と言われたことがある。
辻は現役時代、「パ・リーグの投手は2・3番手でも球威があるのに対し、セ・リーグの投手は変化球を主体に低めに投げてくる」と語っている。この傾向については、当時のセ・リーグの方が球場が狭く本塁打が出やすいためではないかと分析していた。
1984年プロ野球ドラフト会議
1984年 8/7 ロサンゼルス五輪で日本チームが金メダル獲得。
ヤクルト 1位 広沢克己 小山工ー明大 1736安打 306本塁打 通算打率275ヤクルトスワローズ時代は、池山隆寛との「イケトラコンビ」として、主砲として活躍した。読売ジャイアンツと阪神タイガースの両球団で4番打者を務めた唯一の選手でもある。ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。
阪神 3位 和田 豊 日大 1739安打 29本塁打 通算打率291。
1985年に阪神へ入団してから、阪神一筋フランチャイズ・プレイヤーとして他球団へ移籍することなく2001年まで現役生活を送った。
現役引退後は、一軍・二軍でのコーチを経て、2012年から2015年まで一軍の監督を歴任。阪神において、選手・コーチ・監督時代を通じて、31シーズン連続で現場で従事した人物は、和田が初めてである。
ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。
中日 1位 中村 武志 花園高校 1380安打 137本塁打 通算打率242。1988年に正捕手として前年に盗塁阻止率.396でリーグトップの中尾を怪我が多すぎることを理由に外野手にコンバートしたため、大宮龍男・大石友好らのサポートを受けながらではあったが、6月頃からはレギュラーに定着。広島の機動力を封じるなどしてリーグトップとなる盗塁阻止率.448を記録し、6年ぶりのリーグ優勝に貢献。日本一はならなかったが、優勝旅行では星野から「一緒に写真を撮ろう」と言われた。すると星野はカメラマンに「コイツのおかげで優勝できたんや」と言った[1]。この年以降、10年以上も正捕手として活躍した。
広島 2位 正田耕三 市和歌山商高ー新日鉄広畑 1546安打 44本塁打 通算打率287。社会人時代は金属バットを使っていたため、左脇が開く癖があった。プロ1年目でスイッチヒッターの練習を始めた際、カープには高橋慶彦や山崎隆造など既に両打ち転向に成功した選手がいたが、正田はコーチの内田順三から「真似が通用するほどプロは甘くないので自分のスタイルを樹立しろ」と助言を受け、これに従った。また、内田の指示で1,200グラムもある重いすりこぎ型のバットを使い、最短距離でバットをボールにぶつけるスイングを身に付けた。右打席でも練習を重ね、同様のスイングを身につけた。若い頃から俊足を活かすゴロ打ちのスイングを磨いたことを豊田泰光から高く評価された。
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